リンゼイ・アン・ホーカーさん殺人事件について、判決直前に公開された神谷説子さん(ジャパンタイムス)の法廷通訳に関する記事が秀逸な内容だったのですが、日本語版がないようなので私が勝手に訳しました。日本における法廷通訳の問題を広く知ってもらうために役立てられると嬉しいです。
原文(英語)はこちらからどうぞ
ちなみに私は裁判を傍聴していません。ゆえに法廷通訳人の訳は実際のものではなく、意訳してあります。私はこの事件を担当した通訳人の技能や現場の状況に関して十分な知識がないので、本記事が指摘する誤訳などについては一切コメントできません。訳文の責任はすべて関根マイクが負うものであり、原文著者である神谷説子さんは一切関係ありません。つまり誤訳があっても神谷さんに文句言わないでくださいね(誤訳が主題の記事を誤訳するというのもアレな感じですが)。
英国人講師殺人事件の裁判で通訳問題があらわに
通訳人の実力不足を認めない裁判所
神谷説子
英国人英会話講師の殺人と強姦致死罪の容疑で起訴された市橋達也被告人の裁判員裁判は木曜日に判決が予定されている。7月4日の初公判からメディアの注目を大いに集めているこの裁判だが、誰もが気に留めていない問題がある。通訳の質の問題だ。社会的にも関心が高いこの事件だが、微細なニュアンスの誤訳や細かい情報の訳抜けなど、法廷通訳人のミスが何度も確認されている。
この問題を懸念した法曹および言語学の専門家は、外国人が参加する裁判について通訳の質が不十分であるという現状を認め、通訳人の訓練と社会的地位の向上に努めるように裁判所に求めた。
公判中に確認された通訳ミスは裁判官や裁判員の事実認定に影響を及ぼすことはないかもしれないし、結果的に市橋被告人の命運を左右するほどではないかもしれない。しかし被告人、検察、証人、被害者とその家族など、裁判の参加者全員に公平公正な手続きを担保するには正確な通訳が欠かせないため、過剰な通訳ミスは重大な問題であると専門家は指摘する。
例えば7月11日の第5回公判で被害者リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22)の母親であるジュリア・ホーカーさんが検察側証人として証言した時にも複数の通訳ミスが確認された。
検察の目的はジュリアさんの証言を通じて、市橋被告人の犯罪は深刻な結果を招き、リンゼイさんを強姦・殺害した上、死体をアパートの浴槽に砂をかぶせて遺棄したことについて、遺族が厳しい処罰を求めている事実を明らかにすることであった。
娘の死が家族に与えた影響について質問され、ジュリアさんは娘を日本に行かせたことに対して自分を責めていると証言した。「2年間お風呂に入ることができませんでした(I couldn't take a bath for two years)」と証言し、娘の遺体が浴槽で発見されたトラウマをうかがわせた。
しかし法廷通訳人はこれを「あの2年間を取り戻すことはできません(I cannot take back the two years)」と訳した。
その少し後にまた誤訳が確認された。事件に関する苛烈な報道が英国人の日本に対する考え方に影響したかとの検察の質問に対し、ジュリアさんは悪い影響を与えたと答え、今や多くが「日本は以前と比べて安全な渡航先ではなくなった(Japan was a less safe place to come)」と感じていると証言した。
しかしこの証言のニュアンスは日本語への通訳の過程で変化し、「日本はもっとも危険な渡航先(Japan was the most unsafe place to come)」と訳出された。
市橋被告人が遺族に対して謝罪文を書いたことを知っているかと問われて、ジュリアさんは「彼が私たちに謝罪するとは考えていなかった。捕まって残念に思っていると考えていた(We didn't think he would apologize to us. We thought he was sorry for being caught)」と答えた。
しかしこの証言は、市橋被告人は「裁判の準備で(as a preparation for his trial)」謝罪文を書いたと通訳された。
法律では被告人または証人が日本語を喋れない場合、当事者が喋る外国語に精通する通訳者を裁判所が手配することを義務付けている。市橋被告人の裁判は裁判所が遺族にも通訳人を手配した最初のケースの一つでもあり、裁判に積極参加した遺族を支えた。遺族の参加は2008年12月に裁判所の承認を受けて可能になっており、被害者参加制度に基づき被害者の親族は独自の弁護人を選任して裁判に参加し、被告人に質問をしたり、意見を述べたりすることが許される。
通訳の正確性を確認する役割を正式に担う人間が存在しないため、法廷通訳人のミスは修正されずに公判は進められたが、午後に千葉大学名誉教授であり、同大学で市橋被告人を教えた本山直樹氏が弁護側証人として証言した際に、通訳人の誤りを自分で修正する場面が見られた。自身の証人尋問の終わりに通訳の修正を裁判所に申し出て、「通訳人は私が肥料の専門家だと訳されましたが、そうではありません。私の専門は農薬です」と発言した。
ベテランの刑事弁護人であり、市橋被告人の弁護団の主任弁護人を務める菅野泰氏によると、公判中は終始、遺族のために通訳者を手配することを裁判所は強く求めたという。これは通訳人が外国人証人の発言に留まらず、裁判で起こるすべての出来事を通訳するという意味である。裁判のすべての出来事を通訳するという前例が無い試みは有意義な一歩であったかもしれないが、今回においては不十分な結果となった。
弁護団は当初、通訳人を2名手配するように裁判所に働きかけたと菅野氏は言う。実際、被告人が外国人である裁判員裁判では2名体制が標準になりつつある。しかし裁判所は1名しか任命しなかった。この件について千葉地方裁判所は、係争中の案件についてはコメントできないとしている。
金城学院大学教授で法廷通訳の言語分析を専門とする水野真木子氏は、裁判所は優れた技能を持つ法廷通訳人を常に2名任命するべきであると言う。通訳人が2名必要なのは、交代できることと、一方の誤りを他方が発見し、証言の特定の表現について適切な訳を相談して決めることができるからだと水野氏は説く。「これまで多くの(異なる分野における)通訳を研究してきましたが、通訳エラーの量で法廷通訳を越えるものはありません」
法廷通訳には正式な職業訓練も資格制度も存在しないのが問題の根本だと専門家は指摘する。現在、すべての言語の法廷通訳人は通訳人候補者名簿から任命されるが、名簿に登載されている通訳人が職務に必要な技能や適正を有しているとは限らない。日本の法廷通訳人は職業上の肩書きが無く、国家資格も存在しない。
法廷通訳人になるには地域の地方裁判所に問い合わせて、言語能力と経歴について面接を受ける必要がある。裁判所が適格と判断して名簿に登載した後は、訓練は主に実践を通じて行われる。すでに専門的な訓練を経た会議通訳者も一部いるが、多くはそうではない。それゆえ、法廷通訳人の能力にはばらつきがあるのが現状だ。
裁判手続きマニュアル(法廷通訳ガイドブック)は複数の言語で用意されており、裁判所は通訳を集めてフォローアップセミナーも開催している。しかし専門的な職業訓練を実施しない限り現状は変えられないと水野氏は言う。言語技術やメモ取り、通訳倫理などは集中的な訓練以外には習得できないからだ、と。
裁判所は有罪か無罪かが争点ならない限り、ゆるい通訳は大きな問題ではないとナイーブにも信じている、と水野氏は言う。水野氏の模擬裁判研究によると、ニュアンスの違いなどの通訳エラーの積み重ねは裁判員の判断に影響を及ぼす可能性があるとされている。「通訳が刑期2~3年の違いを決める可能性がある」と水野氏は言う。
通訳の正確性は裁判に参加する被害者の遺族にも重要であることを裁判所は理解するべきだと水野氏は言う。遺族は愛する人に何が起きたのか真実を知りたいからだ。例えば感情が溢れる被告人の謝罪や反省の言葉は法廷通訳のかなり難しい部分だが、「通訳のされ方によっては誤って理解され、かえって遺族の怒りに油を注ぐ結果になるかもしれない」と水野氏は言う。