2011年8月9日
久々に講師業してきました。
沖縄キリスト教学院が毎夏主催する同時通訳集中講座で教えてきた。最近は翻訳・通訳の普及活動もサボり気味で、あらゆる意味で教育現場から離れていたので、これはいかん、気合を入れねばと朝からエンジン全開でトークしていたら翌日になっても疲労が抜けないくらい疲れた。というか、単純にもう若くない。
キリ学のキャンパスを訪れるのもたぶん4年ぶりくらいだと思うのだけど、同時通訳を学ぶためのハードやソフトが結構揃っていて、キリ学がこれを目玉にしていこうという本気度が伝わってきた。もちろん教育は教師と学生のコミュニケーション、つまり人間がベースになるわけだが、ベター、いやベストの道具を揃えるに越したことはない。定員割れの大学が増える中、キリ学は設備投資に売ってでたわけだが、吉とでるか凶とでるか。内田樹は『街場の大学論』で「大学が生き残るにはダウンサイズが最善」と主張していた。もちろん単純な予算削減ではなく、得意分野にリソースを集中させて資源の効率化を図るダウンサイジングだ。私もこれには基本的に賛成で、なんでもかんでも学生を入学させるのが良いとは思わないし、大学の差別化を図ることで生き残る大学が増えるのではと考えている。
閑話休題。同時通訳クラスの話だが、事前の打ち合わせでは上級クラスの実力は一部かなり凄いと聞いていたので、私もしっかり準備して、ある意味道場破り的な決意で教室に乗り込んだのだが、少なくとも開講2週間前に資料を配付してあったにもかかわらず最低限の準備をしてきた人は約2名。こういうのは授業で訳を聞くとすぐに分かります、というかバレバレです。通訳者としての心構え以前の問題で、ちょっと予習しようよ…という感じ。教える私も真面目に準備してるのだから。予習なしでもむき出しの才能でそこそこの形に仕上げる学生もいたが、やはり全体的に見ると拍子抜けの感が否めない。残念。
初級クラスは専門的な通訳技法というより、英語・英会話クラスの延長というか、やはりレベル的に難があるので難しいことは教えられない。みんないい子なのだけど。一つ驚いたのは、今回は三島由紀夫を題材にした教材を選んだのだけど、学生が誰一人として三島を読んだことがなかったこと。『金閣寺』も知らないし、彼とホモセクシュアリティの関係性についても知らない。このすさまじい現実に唖然としつつも、来年また呼ばれたら井坂幸太郎とか東野圭吾、いやケータイ小説を使ってみるかと思ってみたり。三島を知らないのはもったいないけど、短期の講座でぶつぶつ言っても何も始まらないし、ここは学生の興味・関心に合わせるのが一番なのかなと。
こう書いたら講座自体が大失敗な印象を持つかもしれないが(今年は台風9号が直撃したのでスケジュールが大幅に変更されて、かなり厳しい内容にはなったけど…)、そうではなくて、やはり学生はみんないい子だし、中には学習意欲が溢れに溢れて爆発寸前のアツい学生もいた。お手頃な費用で集中的に学べる環境を提供していることには間違いない。ただもう少し運営側が工夫して学生全体の予習・復習を促すとか、教える側と学ぶ側の距離感を近づけるとか、もっと色々できることがあるのではないかと思う。
私が何を得たかといえば、まあそれなりの刺激はあって、そろそろ普及活動を本気で復活させようかなと考えている。教えることは大きなエネルギーを必要とするので、正直それほどのお金にはならない。時間と労働コスト、機会費用などを考慮したらむしろ毎回赤字だ。でも沖縄では教える人が少ないので、私が教えないと若手が育たないし、そういう意味で普及活動は一つの重要な社会奉仕活動でもある。そんなわけで近日中に講座サイトのリニューアルをして頑張っていく予定なので宜しくお願いします・・・!
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2 件のコメント:
三島由紀夫のくだりは、思わず頷いてしまいました。
私が2~3年前、Japanere Literatureというようなタイトルの記事を学生に詠ませた時、Yukio Mishimaを「ミシマユキコ」と読み間違え、更に「先生、この女性ってどういう人ですか?女優さん?」というオチ(いや、質問)がついたことがあります。三島由紀夫を知らず、更に記事のタイトルから想像するということも出来ず、まさに文字そのままで何とかしようとし、更に読み間違える・・・。
携帯小説(セカチューみたいなもの)に慣れている学生世代は、川端も三島も鷗外も知りません。大変です。
三島を「さんしま」と読まれた時はさすがに腰が抜けそうになったけど。こりゃダメだと光速で方針転換したけど。
携帯小説って通訳練習に向いてるのかな。やったことないから分からないけど、今度試してみよう。
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