定義と目標が定まったことを受け、エリカが次に取り組んだのは、マーケティングだった。『マネジメント』にはこうあった。
企業の目的は、顧客の創造である。したがって、企業は二つの、そして二つだけの基本的な機能を持つ。それがマーケティングとイノベーションである。マーケティングとイノベーションだけが成果をもたらす。(十六頁)
さらに『マネジメント』にはこうあった。
これまでマーケティングは、販売に関係する全職能の遂行を意味するにすぎなかった。それではまだ販売である。われわれの製品からスタートしている。われわれの市場を探している。これに対し真のマーケティングは顧客からスタートする。すなわち現実、欲求、価値からスタートする。「われわれは何を売りたいか」ではなく、「顧客は何を買いたいか」を問う。「われわれの製品やサービスにできることはこれである」ではなく、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」と言う。(十七頁)
ここまで読んで、エリカは今までマーケティングをほとんどしていなかった事に気付いた。顧客の「現実、欲求、価値」を考えず、自分のことばかり考えていたのだ。そこでエリカは自分の欲求をひとまず置いて、まずは聞き取りから始めた。
まずはエージェントの担当者である比良井に電話した。ことあるごとに「僕の彼女は磯山さやかにそっくり!料理も美味いし!」とのろける比良井だったが、仕事に関してはプロフェッショナルの塊のような人間なので、エリカは彼を信頼していた。
「比良井さん、ちょっと時間いいですか?」
「あ、はい。何かありましたか?」
「いや、比良井さんが翻訳者としての私をどう評価しているか知りたくて・・・あの、正直な意見というか・・・」
いきなりストレートなお願いをされて、電話の向こうの比良井はしばらく沈黙してしまった。しかし少し間を置いたあと、ゆっくりとこう切り出した。
「エリカさん、正直に言いますと、エリカさんの仕事は悪くありません。しかし必要な時に連絡が取りにくいのがちょっと困りますね。メールの返信も遅いですし」
エリカははっとした。というのも、これまでエリカはエージェントから仕事の依頼や訳文修正の連絡があっても、外にスイーツを買いに出かけていたり、友人と昼からサルサを踊っていたりと、何かと連絡が取りにくいことが多かったからだ。携帯は一応持っていたが、あまりチェックする習慣もなく、常にマナーモードに設定していたため、着信に気付かないことが多かった。それにエージェントからの連絡はどちらかというとメールが多いのだが、エリカの携帯はメールをうまく読み込むことができず、PDFやエクセルファイルの閲覧などはできなかった。これではエージェントとしても安心して仕事を依頼できるはずもない。
「わかりました!すぐに改善します!」
エリカは早速、ソフトバンクショップで流行りのスマートフォンであるiPhone 4を購入した。登録しているエージェントからのメールだけプッシュ通知するように設定した。GoodReaderをダウンロードしたので大容量PDFも閲覧可能になったし、QuickOfficeも購入したので、いざという時には電車で移動中にiPhoneで翻訳して送信することもできる。加えてインターネットFAXを導入することで、ファックス機の故障や紙切れの問題も解決した。とりあえず基本的な体制は整えた。今すぐできる事は。
その夜、エリカはまた『マネジメント』を読んだ。
マネジメントは、生産的な仕事を通じて、働く人たちに成果をあげさせなければならない。(五七頁)
「働く人たちに成果をあげさせる」ことは、マネジメントの重要な役割だった。そのためエリカは、エージェントの視点から考えて、「どうしたらエリカに成果をあげさせられるか」ということを考えた。エリカは読み続けた。
焦点は、仕事に合わせなければならない。仕事が可能でなければならない。仕事がすべてではないが、仕事がまず第一である。(七三頁)
その上で、仕事には「働きがい」が必要であると言い、それを与える方法について、こう書かれていた。
働きがいを与えるには、仕事そのものに責任を持たせなければならない。そのためには、①生産的な仕事、②フィードバック情報、③継続学習が不可欠である。(七四頁)
これを参考に、エリカは自分とエージェントの仕事関係を設計していった。そして次の日、比良井にまた電話した。
「比良井さん、相談があります」
「ええ、なんでしょう?」
「比良井さんの言うとおり、私はいままで連絡が取りにくかったです。仕事を請ける身でありながら反省しています。その点についてはもう改善したので、もう心配はないと思います。それで今度は私からお願いがあります」
「私にできることなら何でもしますよ」
「ありがとうございます。まず第一に、組織名や薬品名だけがずらっと並ぶリストの翻訳は他の方にお願いしてほしいのです。場合によっては社内で対処することが可能かもしれません。この種のリストは検索に時間がかかってしまい、私としては全く生産性が上がりませんし、正直な話、収入にも影響があります。というか、私でなくてもできる人はいるはずです。翻訳というより検索作業ですから」
「あ、はい・・・」
「次に、私の翻訳に対して、エージェント側からでも良いし、エンドユーザ側からでも良いので、フィードバックが欲しいのです。どこが良くて、どこが悪かったか。社内で訳文に何らかの修正を加えたのであれば、それについて知りたいです」
「え、あ、はい・・・」
これまで全く主張らしい主張をしなかったエリカのお願いに、比良井は驚きを隠せなかった。
「もちろん私もお願いばかりではありません。これまで以上に自己投資して、腕を磨いて、比良井さんが安心して仕事を任せられるような翻訳者になります。約束です」
エリカは自らに責任を課すことにより、新たな道を切り拓こうとしていた。それはエリカが「自分自身をマネジメントする」という第一歩でもあった。