ちなみに登場人物・設定は全てフィクションです。
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エリカは東京の片隅に住むフリーランス翻訳者。三度のメシよりツイッターとシルヴィ・ギエムが好きという自称20代前半の女子である。思い切って会社を辞めてフリーランスになってからもう3年になるが、なかなか仕事にありつけず、悩める毎日を送っていた。「何かを変えなければ!」と思い、ヒントを求めて近所の書店に駆け込むと、店頭にはピーター・F・ドラッカーの『マネジメント エッセンシャル版』が平積みにされていた。流行に弱いエリカは早速購入して、「自分自身をマネジメントするぞ!」と心に誓った。
自宅に戻り、ベッドに横になったエリカは『マネジメント』を読み始めた。なんとなく読み進んでいると、以下の記述があった。
あらゆる組織において、共通のものの見方、理解、方向づけ、努力を実現するには、「われわれの事業は何か。何であるべきか」を定義することが不可欠である。(二二頁)
なーんだ、そんなの「翻訳をすること」に決まってるじゃん、こんな当たり前のこと書かれてもなあ、と心の中でツッコミを入れつつエリカは読み進んだ。
自らの事業は何かを知ることほど、簡単でわかりきったことはないと思われるかもしれない。鉄鋼会社は鉄をつくり、鉄道会社は貨物と乗客を運び、保険会社は火災の危険を引き受け、銀行は金を貸す。しかし実際には、「われわれの事業は何か」との問いは、ほとんどの場合、答えることが難しい問題である。わかりきった答えが正しいことはほとんどない。(二三頁)
え、「わかりきった答えが正しいことはほとんどない」ってことは、私の事業は翻訳をすることじゃないの?それなら一体なにが私の事業なんだろう…エリカはしばらく考えたが、納得のいく答えは見つからなかった。
さらに読み進むと以下の記述があった。
(マネジャーは)根本的な資質が必要である。真摯さである。(一三〇頁)
その瞬間、エリカは蝶野のビンタを不意に食らったようなショックを覚えた。思わず本から顔をあげると、しばらく呆然とさせられた。
「真摯さってなんだろう…」
これまでエリカはフリーランス翻訳者として、与えられた仕事を機械的にこなすだけで、自分が真摯であるかなんて一度も考えたことはなかった。それどころか、エージェントの担当者と実際に会って話したこともなかった。自分自身に対しても真摯なのかどうか分からない。改めて「真摯さとは何か」と問われて、納得のいく答えが出せない自分がもどかしかった。突然、目から涙があふれ出してきた。自分がなぜ泣いているのかエリカはわからなかったが、しばらく涙が溢れるのに任せていた。