2010年7月24日

翻訳者的『もしドラ』2 エリカは顧客を定義した

結局、エリカは自分の事業を定義する事ができなかった。そこでエリカは、もう一度『マネジメント』を初めからじっくりと読み返してみた。すると、そこにはこうあった。

企業の目的と使命を定義するとき、出発点は一つしかない。顧客である。顧客によって事業は定義される。事業は、社名や定款や設立趣意書によってではなく、顧客が財やサービスを購入することにより満足させようとする欲求によって定義される。顧客を満足させることこそ、企業の使命であり目的である。したがって、「われわれの事業とは何か」との問いは、企業を外部すなわち顧客と市場の視点から見て、初めて答えることができる。(二三頁)

エリカはいつもここでつまずいてしまった。「顧客」とは何を指すのか、よく分からなかったのだ。エリカはエージェントから仕事を請けていたが、会社を訪問したこともないし、担当者の顔を見たことすらない。いまいちイメージが湧いてこなかった。エージェントが顧客なのだろうか?

したがって「顧客は誰か」との問いこそ、個々の企業の使命を定義するうえで、もっとも重要な問いである(二三~二四頁)

本当に、「顧客」とは一体「誰」なんだろう?

『マネジメント』には、「顧客が誰か」を問うことについて、こうあった。

やさしい問いではない。まして答えのわかりきった問いではない。しかるに、この問いに対する答えによって、企業が自らをどう定義するかがほぼ決まってくる。(二四頁)

エリカは考えた。答えを出さなければ先に進めない気がしたのだ。自宅で悩んでいると、友人の志水が遊びにきた。志水は大のサッカーファン。ワールドカップ中は毎日眠らずに観戦して衰弱し、病院に運ばれた逸話を持つ中堅の映像翻訳者である。エリカは志水に訊いてみた。

「ね、一つ聞いてもいい?」

「ん?」

「あなたって、『マネジメント』読んだことある?」

「ああ」と志水はアーセナルの選手名鑑を読みながら言った。「ずっと前に読み込んだ。エリカの持ってるエッセンシャル版じゃなくて、完全版をね」

「じゃあ私の『顧客』って誰なのかな?」

「え?」

「私、それが分からなくて、ずっと困ってたんだ。この本には『顧客によって事業は定義される』って書いてあるんだけど、肝心の『顧客』っていうのが誰なのかが分からないんだよね。エージェント?それとも私の訳文を見る担当者?誰なんだろう?」

「ふむ・・・ちょっと見せて」と、志水はエリカの持っていた『マネジメント』を手に取り、パラパラとページをめくって、次の文をエリカに見せた。

1930年代の大恐慌のころ、修理工からスタートしてキャデラック事業部の経営を任されるにいたったドイツ生まれのニコラス・ドレイシュタットは、「われわれの競争相手はダイヤモンドやミンクのコートだ。顧客が購入するのは、輸送手段ではなくステータスだ」と言った。この答えが破産寸前のキャデラックを救った。わずか二、三年のうちに、あの大恐慌時にもかかわらず、キャデラックは成長事業へと変身した。(二五頁)

「これを読めばわかるでしょ」と志水は言った。

「どういうこと?」

「ニコラスが自動車を定義した時、単に『輸送手段』だけではなく、キャデラックの場合は『ステータス』もあるとしたんだ。それにたどり着いた理由は彼が『顧客とは誰か』を考えたから。ニコラスは結果として、『ダイヤモンドやミンクのコートを買う客』という答えを導き出した。だから『ステータス』という定義付けができた。エリカも同じように自分にとっての『顧客は誰か』を見極めれば良いと思う。というか、それが出発地点だと思うよ」

「でもその顧客が誰か分からなくて困ってるんじゃない・・・」

志水はやれやれとした顔でこう言った。

「何も難しく考える必要はないと思う。エリカはエージェントから翻訳の仕事を貰っている。だからエージェントは顧客。でもそれだけではない。だってそもそも、その仕事はエンドユーザ、つまり個人や企業からの依頼だよね。だから彼らも顧客。もっと言えば、エリカを育ててくれた翻訳学校や、いまだにエリカに仕送りしてくれる親も顧客だと思うよ、広い意味で。」

「そうか・・・」

この時、エリカの頭の中にはもやもやするものが芽生え始めていた。それは直感だった。あともう少しで言葉にできる、しかし出てこない、ああ、このイライラ感!それは、もう待ち合わせの時間に遅れそうで今すぐ家を出なくてはならないのに、携帯電話をどこに置いたか思い出せないような感覚だった。

もう喉のすぐそこまで来てるのに・・・

その瞬間だった。エリカは、ダイソンの掃除機で頭の中のもやもやを一気に吸引されたような感覚を味わった。

「安心!」

とエリカは叫んだ。それで志水はびっくりした顔でエリカを見た。

「そうよ!『安心』よ!顧客が私に求めていたものは『安心』だったのよ!エージェントにしても、元の依頼主であるエンドユーザにしても、みんな訳文という物を求めているんじゃない。訳文が生み出すコミュニケーション、スムーズな意思疎通、相手を理解できるという事と理解されているという事。この安心感を求めているのよ!それに翻訳学校の先生とか親だって、私の生活が早く安定して安心したいだろうし(笑)」

「ふむ、そうだね・・・」志水はしばらく考えてこう言った。「確かにその側面はあると思う。依頼者はそもそも言葉ができないから依頼したのであって、そこには不安もあると思う。訳文をただ渡されても安心できるとは限らないしね。」

「そうよね!合ってるよね!」とエリカは興奮してうなずきながら言った。「今はっきり分かったわ。翻訳者として私がするべきことは『顧客に安心を与えること』なんだ。やっと分かった!」