ツイッターのラーメン番長である@ura_mami先輩に陸前高田市図書館ゆめプロジェクトについて教えてもらった。早速ダンボール三箱分の本をまとめて送ったのだが、整理中になつかしい本を発見。
神谷美惠子 聖なる声
私は海外で教育を受けたので、日本に戻ってからはとにかく勉強することが山ほどありました。日本史、地理、文化など、日本人であれば中学生でも知っているような基本的なことから。天皇家だって、「え、ミチコサマ?それっておいしいの?」レベルだったわけです。
それで美智子皇后についてもそこそこ勉強したわけですが、その過程で神谷美惠子と出会いました。後で知ったのですが、神谷は医師でありながら語学の素養があり、翻訳書も多数残していて、私が深い感銘を受けたフーコーの『臨床医学の誕生』やマルクス・アウレーリアスの『自省録』も彼女の翻訳だったのです。いやあ、感動しましたよ。運命の出会いと言ったらおおげさかもしれませんが、それくらいの縁を感じましたね。私が翻訳を仕事にするきっかけを作った一人であることに間違いありません。
もっとも彼女は別に翻訳者を目指していたわけではなく、父親の前田多門が戦後に文部大臣に就任し、信頼できる人材で周辺を固めたかったからなんですね。人材不足というのもありますが。
前田多門は文部大臣になると、自分の仕事をやりやすいように、周辺を親しい人たちで固めた……問題は、占領軍がやってくるというのに、文部省に実用的な英語のできる人はひとりしかいなかったことだ。戦時中に英語は「敵性国家」の言語とされていたから、英語力のある人材は無用だったのである。
ここで美惠子は「占領軍とのやりとりに困るから、急場をしのぐためだけでも来てくれ」と多門から必死の形相で懇願された。美惠子自身も父を助ける必要を感じていたので、東大と文部省を行ったり来たりした末に、十月からは文部省に勤めるようになる。
そして朝から晩まで翻訳に明け暮れることとなるのですが、やはり神谷も人の子。煮詰まって悩むこともあったようです。
日本の最高レベルの知識人が文部省の中枢に位置し、占領軍のなかのリベラルな人たちと戦後日本の教育の再建にあたる。熱っぽい議論が沸騰する。その通訳や文書の翻訳が美惠子の仕事になり、しばしば徹夜で英訳をすることになる。
「奴隷のごとく英訳をしている間にたまらなくなって、とうとう爆発」 といった事態になるが、それでも辞めるわけにはいかなかった。
私は神谷の素朴で純粋な人間性、とにかく真っ直ぐなところに惹かれます。それは彼女が神谷宣郎と出逢って本物の愛を発見し、その時の気持ちを綴った日記に表れています。
「彼の愛と理解は丁度この春の慈雨のように私の上にふりそそいでいる。それによって私のうちなるものがぐんぐんのびて行っているような感じがする。この二、三日、なんというあたたかさであろう。春遠からじの感が深い。ああ私の人生にもようやく真の春が訪れんとしているのか。昨日電話で彼の声をきいたとき、このことの成るのをただただはっきりと感じた。私にこのような春を迎える権利があるのか、とただただ勿体ない気がする。沢山の不幸せな人々を思うとどうしていいかわからないような気がする。どうかこのことにより私が少しでも成長しさらにあたたかく深き愛を人に注ぐことができるように!」
このとき、まだ交際を始めて一ヶ月も経っていなかったそうな。純粋すぎて泣けます!嫁にほしい!
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