村松増美名誉会員を悼む 日本笑い学会新聞
矢能さんは自身のUstreamアカウントで村松さんの一部講演を公開しています。嬉しいですね!
私は彼にお会いする機会に恵まれなかったのですが、実はいま読んでいる鳥飼玖美子さんの新著『戦後史の中の英語と私』に面白いエピソードがありました。故人を知らないゆえに追悼文すら書けない私なので、代わりにこれを引用します。
村松がGHQに仕事を求めたのは、英語を学ぶことが目的であった。最初は、東京にある連合軍キャンプで主としてオーストラリア兵と仕事をしていたが、もう少しましな仕事をしたいと考えた村松は神田にあるタイピスト学校に通い、他の生徒の二倍もの努力をしてタイプを学ぶ。タイピスト職応募条件の、一分間に五十語を打てるまでになったところで、東京軍政府が名称を改めたGHQ東京民事部の面接を受ける。アメリカ英語に慣れていなかったこともあり、"thirty"の't'をアメリカ式に発音した面接官から「一時半に戻ってきて」と言われたことすら理解できなかった。「あなたの英語はダメだと思ったけど、気の毒だから採用したのよ」と言われたほどである。
英語を勉強してタイプ打ちの速度を驚異的に早めた村松は主任タイピストに抜擢され給料も上がったが、タイピストに比べ通訳者の給料袋が相当に厚いことに気がつく。 通訳者として働いていた人たちは、男女を問わず年齢もまちまちであったが、アメリカ人と日本人の間に立って仲介する姿はさっそうとしていた。しかも、文法的に謝った英語を使っている日系人が通訳をして高給を得ているのを見て「あんなんなら私でもできる」と考え、十九歳だった村松は通訳職への配属を上司に願い出る。アメリカ人の上司は「通訳者になりたいのか?よし、君は通訳者だ」と即決してくれ、村松は翌日から、週に三日は、千葉、埼玉、茨城、静岡、長野なのどの各県を出かけ、訓練など何も受けないまま、関東圏各地の県庁で講義や討論の通訳をするはめになる。間違えたり、ごまかしたりは日常茶飯事であった。
なんというか、勇気が出るエピソードですね。色々な意味で。私もミスをおそれずにチャレンジを続けていきたいものです。